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​濱長 八郎 花神楽

可杯のひょっとこ
ベク杯
可杯のおかめ

濱長花神楽の舞の奥には、よさこい祭り誕生に力を尽くした初代店主・濱口八郎の存在があります。「高知を元気にしたい」「この祭りを全国へ、世界へ」——そう願い、祭りの礎を築いた八郎の志を、鳴子のバトンとして受け継ぐ花神楽の原点をご紹介します。

濱口八郎・千代子

よさこい祭り、
その生みの親の一人として

濱長花神楽の根底には、初代店主・濱口八郎の存在があります。高知商工会議所観光部会の役員であった八郎は、戦後間もない昭和29年、「戦後の高知を元気にしたい」「この祭りをいつか全国へ、世界へ広げたい」という一心で、よさこい祭りの誕生に深く力を尽くしました。

料亭には、日頃から日本舞踊のお師匠さんたちが出入りし、作曲家・武政英策氏もよく顔を出していました。そうした縁もあって、祭りの世話役の中でも、八郎がとりわけ多くを担うことになります。「阿波踊りに負けないようなものを、曲も歌詞もすべて考えてほしい」と武政英策氏のもとを訪ね、依頼したのも八郎でした。まさに、よさこい祭りの生みの親の一人でした。

曲がったことが大嫌いで、
涙もろい
「土佐のいごっそう」

八郎は、絵に描いたような「土佐のいごっそう」でした。曲がったことが大嫌いで、気に入らないことがあればすぐに声を荒らげる。その一方で涙もろく、困っている人を見ると放っておけない。頼まれごとがあれば店のことも忘れて駆けつけ、いつしか地域の「何でも相談役」のような存在になっていました。

そんな八郎だから、よさこい祭り創設に向けて、一途に奔走できたのかもしれません。そして八郎から声をかけられた人も皆「普段から世話になっているから、ここはひと肌脱ぐしかない」と思ってくれたのかもしれません。

振り付けに込めた想い

鳴子踊りのにぎやかなリズムは武政英策氏によるものですが、踊りの振り付けをめぐっては、八郎自身も日本舞踊のお師匠さんたちとの間に入り、苦心を重ねました。日頃から料亭を通じて顔なじみだったお師匠さんたちであっても、優雅な舞台踊りになりがちな振り付けと、街頭で踊るための実用性との間には隔たりがありました。「街頭での踊りなのだから、とにかく前へ、前へ進むように」と主張したのも八郎です。祭りの日が近づく中でまとまったのが、「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という、今に通じる型でした。

変わってもいい、
けれど要は揺るがない

八郎は生前、「よさこい祭りはどんどん進化していったらいい。変わってもいい」とよく話していたといいます。時代を生きる人たちが「美しい」「楽しい」「心が躍る」と感じられる祭りであり続けてほしい、という願いです。けれど、人と人とのつながりを何より大切にした八郎のことです。変えることそのものを良しとしていたわけではなかったのでしょう。人への感謝や敬意、祭りに託した願い。その揺るぎない原点、いわば扇の「要」があるからこそ、新しい発想は自由に羽ばたいていける。それが、八郎の生き方から受け継いだ「温故知新」の考え方です。

鳴子のバトンを、花神楽へ

祖父たちが祭りに託した願いと、高知の伝統文化への感謝を未来へつないでいきたい。よさこい祭りが始まって56年後の平成22年、孫にあたる濱口実佐子が立ち上げたのが、よさこいチーム「濱長花神楽」です。困っている人を放っておけない心、誰かを喜ばせたいという想い、高知を元気にしたいという願い。八郎が生涯をかけて大切にしてきたその想いは、料亭の料理となり、芸妓・舞妓のおもてなしとなり、そして花神楽の舞となって、今も鳴子の音とともに息づいています。

動画で見る濱口八郎

よさこい祭りの回顧録のテレビ放映の映像を
有志の方が分けてくださりました。
濱口八郎本人が語る、よさこい祭りへの想いを
​ご覧いただければ幸いです。

よさこい祭り20年史
よさこい祭り20年史

よさこい祭り20年史

高知新聞企業さんから出版された書籍に第一回目のよさこい祭りのことが記されています。こちらにも八郎の名がございます。

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